僕の読書メモ:『日本語を作った男 上田万年とその時代』(山口謠司)
2016年11月4日(金)、読了。
(1)著書名
『日本語を作った男 上田万年とその時代』(山口謠司)
娘:「パパの本って何?へー、「にほんごをつくったおとこ、うえだまんねんと、そのじだい」、って本なんだ。面白い?」。小3漢字が分かれば、題名は読めるようです。
(2)結論
子供に、「日本語がなってないよ!」という前に、近代日本語成立の過程について、大人も把握しておいたほうが良いですね。なにしろ、「日本語」が今の姿になったのはなんと1900年代に入ってからなので。
(3)きっかけ
10月上旬に見た、NHK「歴史秘話ヒストリア」(日本人なのに通じナイ!?明治標準語ことはじめ)。
僕は、恥ずかしながら、現在使われている「日本語」というものは、明治維新後に自然発生的に成立したものと理解しました。番組で、そうではない、ということを知ったので、上田万年(うえだまんねん)に関する、この本をチョイス。娘に国語(=標準語としての日本語)を教えるに際し、その成立過程について理解しておいたほうが良いでしょうし。
(4)所感
この本は、2016年2月29日初版なので、出たばかり。内容は、以下説明文に凝縮されています。
=quote=
明治維新を迎え「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。明治にはまだ「日本語」はなかったのである。「日本語(標準語)」を作ることこそが国(国家という意識)を作ることである – 近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立にきわめて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く。
=unquote=
著者である山口謠司(やまぐちようじ)氏の文章も、切れ味があって素晴らしいですね!1963年生まれの文献学者だそうです。個人のサイトもありましたが、こちら。実に楽しそうな先生です。
上田万年自身による資料はそれほど多くは残っていないそうなので、各種文献から上田万年の活動を探るような構成。
僕が読んでいて面白かったポイントをメモしておきます。
・明治時代当時、まだ本を黙読することはほとんどなかった。本は、奈良平安以来ずっと、声に出すか、少なくとも必ず唇を動かして読まれてきた。
・「音韻推移(グリムの法則)」。異なる言語間における単語を比較して音韻変化の法則を見つける。万年も、日本語の「P音考」の論文発表。上古の日本語では、「はひふへほ」が「パピプペポ」と発音されていて、それが「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」となり、「ハヒフヘホ」と変化した。現在では正しい学説として認知。つまり、「母(はは)」は、昔は「パパ」と発音していた(笑)。
・印刷というメディアの発達が、言語の自然変化を推進。
・明治時代、翻訳書は豊富ではない。原書を読めなければ学問は修められない。だから、外国語が分からない人にも日本語でだれもが理解できるような学術書が書けないか、と天野為之(早稲田大学の創立に関わり、のちに総長)は考えたようである。
・明治時代当時、速記担当が認知していた日本語の音韻の区別は205音。
・日本語の「ん」。じつは発音はたくさんある。だから、「ん」が母音でも子音でもなく、五十音図の左の端に、ちょこんとはみ出している。
・日本語に限らず、言葉は発音を簡略化していく傾向がある。古代の音素の数は時代を経るごとに少なくなっていく。
・明治時代、外国語とくに英語を徹底的に学んだ人々にとって、「和文」と「漢文」のそれぞれ一番の弱点は、どちらにも主語が無いことであった。つまり、だれが、何を言っているのか、分からない。そして漢文は、過去、過去完了、未来、をあらわす助詞や助動詞さえない。
・森鴎外。吉村昭の『白い航跡』で、脚気細菌説を唱える森鴎外と、兵食改善で改善しようとした高木兼寛(たかきかねひろ、慈恵医大の創設者)のバトルは知っていました。しかし、旧仮名遣いを唱える森鴎外と、新仮名遣いを唱える上田万年のバトルがあったことは、僕は知りませんでした。森鴎外ですが、実務(脚気・日本語)では、駄目な部分が目立ちますね。
・夏目漱石。結果的に、上田万年の流れを組む。百年後の我々でも読める「吾輩ハ猫デアル」(『ホトトギス』に掲載)。読みやすい、という意味で画期的。やがて、森鴎外や他の作家の文章は読まれなくなっていく。
以下は大事なので引用しておきます。
=quote=
ロシアとの戦いに勝った日本は、江戸の空気を棄て、新しい風を大きく受けて本格的な近代化へ向けて発展していくことになるのである。
さて、『ホトトギス』一月号に「吾輩ハ猫デアル」が発表された明治三十八(1905)年、日本は、日本海海戦でロシアバルチック艦隊を破り、五月に日露戦争に勝利する。これによって列強の仲間入りを果たし、日本国内には強さと華やかさが生まれてくる。
(中略)
漱石の文章は、この頃(※1907年)から教科書の読本に採用されはじめる。それは、万年や芳賀矢一などの教科書調査委員会などの力もあったからである。
高橋義孝は『森鴎外』で、漱石と鴎外の文章を例に挙げ、その差について見事に記している。
==
鴎外の文体は、永い和文様式の伝統と歴史の中にあって全く孤立しているように思われる。鴎外が敬遠されて、夏目漱石が歓迎されるのは、必ずしも彼らの文学作品の内容や人間性から来ているのではなくて、そこにはむしろ文体が大きく物を言っている気味がある。(中略)
鴎外が文学的正確さを貫き通そうとしたのは、彼が「田舎者」だったからではなかろうか。彼は「田舎者」だったから日本語の「正格」を守り得たのではあるまいか。この点、漱石はかなりのんきに構えていたようである。
そして鴎外の「日本語」はあとに残らず、漱石の気易い文体があとに残ることになった。鴎外の文章を拒否したのは、恐らく日本人の心性そのものではなかったであろうか。
==
漱石の文体は、ほとんど、万年が望む言文一致体であった。当時より現代まで、漱石の文体は古びることなく、人々の心を掴んでいるのである。
=unquote=
★この記事のエントリー時点の状況:
①サピックス:小1最上位クラス、②公文算数:E教材終了テスト前(=小5)、③公文国語:CI教材終了テスト前(=小3前半)、④漢字検定8級(=小3)勉強中(2016年11月6日受験予定)
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コメント一覧
すべてが正しいわけではありません。有益な記述もあれば、おかしな記述もあります。とりあえず
http://blogs.yahoo.co.jp/kotoyo_sakiyama/63504460.html
を参照してください。ほかにも賛否の意見がネット上にあります。
>崎山言世さん
ありがとうございます。著者が切り込んでいるからこそ(間違いも含めて)、賛否両論あるものと理解しました。