小3/博物館/054:桶狭間古戦場伝説地
2018年11月24日(土)。
ボランティアのガイドさんに丁寧に説明頂きました。
娘:「織田信長の作戦が凄い!今川義元は騙されたことになるけど、油断するのも仕方がないと思った。今川軍の先頭で戦いがあり、そこで織田信長にそっくりな人が討ち死にして、それを持ってこられたら、誰だって勝ったと油断すると思う。でも、それが作戦だとしたら、織田信長は怖いくらいに頭がいい。そして、油断して谷間に陣取った今川義元がお昼にお酒を飲んでお祝いしちゃうわけだけど、その後豪雨になった直後に織田軍が攻めてきたら、兜を脱いでしまっているわけだから、もう戦えないよね。」
・・・東京から自転車で走ってきた小3女子ということもあり、ガイドさんたちに可愛がって頂きました。尚、ガイドさん達の説は、旧陸軍参謀本部が明治31年に発表して長らく通説となっていた「迂回奇襲説」や、昭和57年に発表された「正面攻撃説」(角川歴史まんが8巻のp.32以後に採用)ではなく、平成24年に太田輝夫氏が発表した「時間差二段攻撃説」をベースにしています。
なぜならば、太田輝夫氏がその場で説明しているからです(笑)。
聞けば聞くほど、合理的な戦略なので、僕もファンになってしまいました。ガイドブックである『奇計 桶狭間合戦の真実』(太田輝夫)を購入し、娘はサインをもらっていました。
僕は話を聞いていて、以下を思いました。
①昼から祝宴を上げるほど今川義元は馬鹿ではない。よほどの理由が必要。
②同時に討たれたのは側近の城主多数。p.38によれば、「遠江井伊谷城主 井伊直盛」の名もあり。低地から丘の上にかけての正面攻撃でこうはならない。
・・・結論として、おすすめの観光スポットでした。関ケ原古戦場を訪問しても思いましたが、戦闘の様子がイメージできる場所に子供(特に男子)を連れて行くのは、良い経験になることでしょう。娘は、富士川の戦いでも水鳥について面白がっていましたが、大人も遊べます。
僕が個人的に面白かったのは、桶狭間の戦いのあと、江戸時代になると石碑が増えていき、東海道をゆく人の観光スポットになっていった、ということ。戦後、土木工事で大量に出土した今川軍や織田軍の装備品は廃棄されている、というのが実に残念。宅地造成でも大量の人骨が出土したそうな。
ガイドさん:「今川軍の本隊は5,000名だった。長い行列だった。」
娘:「一列だと、4,999個の間がある。1mだと、だいたい4,999mだね。」
ガイドさん:「当時は2列で歩いたと思われる。槍とかあるから、2m間隔かな?」
娘:「2,500名だと、2,499個のあいだか。だいだい2m間隔だと、やっぱり5km近いね。5km近くの長い隊列だったら、本陣に突入したとしたら、兵士の数の違いは大きな差にならないですね。この場所は狭いから、人数が多くても戦えない。」
★現時点の立ち位置:
・小3なので公文に注力、小4での数国J10を目指す。
①公文:数学I(=中3)/上位0.5%【2018年8月31日から】
②公文:国語HII(=中2後半)/上位1.0%【2018年10月19日から】
③算数:塾カリキュラムでオントラック(+αで市販教材活用)
④語彙:言葉力1100・1200 + 言葉ナビ上・下巻
⑤漢字:現学年小3を深堀り
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