小5/博物館/114:小塚原刑場と杉田玄白・前野良沢による腑分け

娘の博物館等の訪問

2020年4月23日(木)。

 

昨日のお話。

 

新型コロナ問題で日本サイクルスポーツ振興会から提言が出ているので、同提言を遵守する形で実施している、「夕方サイクリング」。

 

誰とも接触しないので、新型コロナに「感染するリスク」も「感染させるリスク」も少なく、常識と良識の範疇に入る「小学生の免疫力を維持するために必要な運動」だと思います。

 

・・・さて、昨日は小塚原刑場にお邪魔しました。吉村昭の『冬の鷹』では「骨ヶ原刑場」と表記されています。

 

娘:「ああ。。ここは、"多すぎる"ね。。」

 

僕:「うん。吸い込まれていくね。凄い。。」

 

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1741年に建立された「首切地蔵」よりも、1698年に建立された「題目搭」が素晴らしい。目の前に立つと、いろいろと聞こえてきます。現地には解説文がありますが、ネットを探しても出てこないので、僕にて記録を残しておきます。

 

=quote=

元禄11年(1698年)2月15日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により建立された題目搭。17世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切乗生の救済のため造立した題目搭のひとつであり、品川の仕置場等100基以上が確認されている。

 

19世紀前半には土中に埋もれていたが、慶應3年(1867年)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光街道中に移設し、小塚原の首切地蔵と並んで安置された。明治29年(1896年)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。

=unquote=

 

各種資料を読みこんで、娘が学んだことは以下の通り。

 

・小塚原刑場は1651年に創設。もともとは浅草に刑場があったが、江戸市中の拡大により、北に移転。つまり50年程度で江戸が拡大したことが分かる。

・江戸時代の刑場は、北に日光街道沿いの小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(同じく1651年に芝高輪刑場から移転)、西に甲州街道沿いの大和田刑場があり、三大刑場と言われた。

・いずれも、主要街道から見えるところにある。これは、一種の抑止装置。

・小塚原刑場の広さは、108m x 54m。

・明治6年(1873年)に廃止。それまでに20万人以上の罪人の刑が執行された。222年間で20万人なので、概ね1,000人/yearですね。ここから先は推測になりますが、三大刑場の合計で3,000人/yearですので、江戸市中の治安を守るために必要だと判断された処刑者数は3,000人/yearということになるのでしょうか。

・もともと回向院として1つだったが、線路により分断されて、回向院と延命寺として独立した。

・回向院には『解体新書』出版の原点となった説明がなされている。

 

娘:「凄かった。。」

 

僕:「なかなかだったね。でも、小塚原刑場はざっくり200年かけて約20万人だが、関東大震災は1 dayで約10万人だ。どちらの方が"感じる"か、考えてごらん。まあ、自然災害はまだ良い。戦争は更に酷いぞ。東京大空襲の1dayで約10万人、そして広島は一瞬で約10万人が犠牲になっている。」

 

娘:「・・・。」

 

僕:「"現在"という時間は、膨大な死者の上に構築されているんだよ。だから、歴史を学ばないといけない。次代に活かすことを考えるのが、今生きている者の使命だ。」

 

■写真集

 

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③算数:塾カリキュラムでオントラック

④語彙:パス単3級+言葉ナビ上巻

⑤漢字:小5の深堀り中

 

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Posted by senki