新中2/記事レビュー:豊島岡と徳川家康(Yahoo「徳川家康は「寛容」すぎて天下を取った…大河『どうする家康』の見方が劇的に変わる家康流「組織術」」)
2023年2月26日(日)。
・2023年2月25日:豊島岡と徳川家康(Yahoo「徳川家康は「寛容」すぎて天下を取った…大河『どうする家康』の見方が劇的に変わる家康流「組織術」」)
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「世の中が平穏に近づいていくと、家臣に対して土地を与える『御恩と奉公』の考え方が通用しなくなり、主従関係が弱まっていきます。家康はそれをいち早く察知し、下剋上の可能性を減らすにはどうすればいいかを考えます。そんな中、『忠』の思想を根幹とする朱子学に着目したのです。林羅山の教えをもとに、江戸幕府の官学として儒学と朱子学を据え、この新たな概念を用いて、武家を手なずけ、徳川政権を長続きさせました」(歴史小説家の伊東潤氏)
豊島岡女子学園中学校・高等学校の元理事長である二木謙一氏が、自身の学校運営に照らして振り返る。
「62歳でいきなり学校の校長を任された私は、1800人の生徒と約100人の教職員を動かさなければいけませんでした。どうすれば生徒も教員も誇りを持てる学校を作ることができるか悩んだのです。
そこで参考にしたのが家康の人材登用や人使いでした。たとえば若かりし頃の家康が三河をおさめていた時、性格が異なる3人を一組にして、奉行の仕事に当たらせました。これをヒントに、異なるタイプの教員を主要ポストに置くといった配置換えを行ったのです」
もう一つ二木氏が重要視したのは、家康が生涯座右の書にしていた中国の古典『貞観政要』にある「安きに居りて危うきを思う」という教えだった。
「人は役職についた当初は一生懸命働くが、時間が経つとマンネリ化してしまう。だから緊張感を忘れぬ心がけが重要というのです。
私が来てすぐの豊島岡も、役職に長く就いている先生が多かった。そこで組織を改変して、若手や適材適所の登用を行い、よりよき教育体制の確立を目標に掲げました」
こうした取り組みの積み重ねで、二木氏が校長に就任した時点で10名ほどだった東大合格者数は、10年間かけて約4倍の数に飛躍したという。
人物を見定めて、毛色の違う部下たちをまとめ上げる。それに加え、自分に対して「いい格好をする」者を重用しなかったため、本当に実力のあるものに囲まれた最強集団を作り上げることができた。前出の伊東氏が補足する。
「家康は凡庸な自分を知っていたからこそ、家臣ひとりひとりの声に耳を傾けていきました。お気に入りや、茶坊主的な人物を周りに侍らせることはありませんでした。
私は過去に経営コンサルタントとして活動していたからわかりますが、現代の組織でもこの壁はなかなか突破できません。特に、ベンチャーから成長させた企業を率いる人には難しい。苦言を呈する人を重用はできないものです」
乱世を生き抜いた家康流マネジメントが、400年以上を経て、再評価されようとしている。
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★現時点の立ち位置:
①公文:英語M、数学M、国語L
②英単語:パス単1級「でる度A」まで復習中
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