『おいしい日本地理』(中学受験用の漫画):Last travel 関東その2 東京のこれまでとこれから
2021年8月14日(土)。
『おいしい日本地理 ~まんがでわかる中学地理&ご当地グルメ~』(ぷぇんすく・くじょう/講談社)
中学受験での社会の勉強を、楽しく、おいしくしてくれる役に立つ漫画です。講談社さんの協力を得て、全16編を毎週末に僕がレビューする連載記事です。新型コロナで東京だけで5,000人/dayのペースで感染者が増加していますし(デルタ株とされる)、中学受験生は漫画で気晴らしですね。尚、講談社さんから漫画の画像提供と掲載許可を頂いております。
ついに、Last travelになりました。
■Last travel 関東その2 東京のこれまでとこれから
主人公は東京新宿にいます。
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諸説ありますが、日本におけるインドカレーの発祥は、ここ新宿中村屋といわれています。それまでは、カレーといえばカレー粉と小麦粉がベースのものでした。
新宿中村屋:菓子や肉まんなどで知られる食品メーカー。創業者の娘がインドの独立運動家と結婚したことから本格的なインドカレーの提供をはじめ、昭和初期から人気を博す。
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新宿中村屋ですね。僕はカレーが大好きですし、ここは現地取材がマストと判断。
主人公が座っていたであろう入口に近い席に座り、漫画の一コマと全く同じ構図を再現してみました。
おいしいですねえ!「恋と革命の味」。
詳細は「中村屋の歴史」に詳しいのですが、恋と革命の味について学習させて頂きました。
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・ボースを陰から支えた俊子
その後ボースは3カ月半中村屋のアトリエで過ごします。中村屋には外国人を匿うのに都合の良い条件が揃っていました。部屋がたくさんある、人の出入りが多い、外国人の姿も珍しくない、愛蔵の妻 黒光が英語を話せるなど。しかし何よりも大きかったのが、家中の人みんなの心がボースを匿うことで一致していたことでした。中でも大きな存在だったのが相馬夫妻の娘 俊子。ボースは大正5(1916)年3月に中村屋を出て逃亡生活を続けますが、その連絡役を務めたのが俊子でした。2人は後に結婚し、ボースは相馬家とのつながりを更に深めました。
大正8(1919)年、第一次世界大戦後のパリ講和会議により英国の追及が終了し、ついにボースは自由の身となります。ボースは、翌年には日本に帰化、また中村屋の役員を務めるようになります。しかし平和な日々は長くは続きませんでした。大正14(1925)年、逃亡生活の心労がたたり、俊子が亡くなってしまいます。26歳の若さでした。自分を支えてくれた人を幸せに出来なかった・・・。ボースの無念は計り知れないものだったに違いありません。
・純印度式カリーの誕生 <昭和2(1927)年6月12日>
大正末、百貨店の新宿進出に中村屋は少なからず脅威を感じていました。また、お客様から「買い物の時一休みできる場所を設けてほしい」とのご要望を以前から頂いていました。そこで愛蔵は喫茶の開設を検討。しかし喫茶のような丁寧なお客扱いは容易には出来ないだろうと尻込みしてしまいます。それを聞いたボースは、祖国インドの味を日本に伝えるため、純印度式カリーを名物料理にした喫茶部をつくろうと提案します。そして昭和2(1927)年6月12日、喫茶部(レストラン)を開設。同時に、純印度式カリーが発売されました。
冒頭にもあるように、当時日本に広まっていたのは小麦粉を使った欧風タイプのカレーです。ところが、ボースが作ったのは本場インドのカリー。お米はインディカ米を使用し、スパイスの強烈な香りが漂います。またお肉も日本人が見慣れない骨付きのゴロっとした大きな鶏肉。その異国の料理に日本人は初め戸惑いを隠せませんでした。そこで相馬夫妻はお米をインディカ米のようにソースが浸透し、なおかつジャポニカ米のようにモチモチ感がある白目米にします。しばらくするとお客様が骨付き肉やスパイスの香りにも慣れ、次第に売り上げが伸びていくようになりました。当時、町の洋食屋のカレーが10銭から12銭程度でしたが、中村屋のカリーは80銭。それにも関わらず飛ぶように売れたそうです。
こうして、純印度式カリーは中村屋の名物料理になりました。そこにはボースの相馬家との出会いと、祖国に対する愛情があったのです。
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競争原理と差別化。中学受験にも通じる要素です。
★現時点の立ち位置:
・資源配分比率:中学受験90%、中学入学後10%
①公文:数学K20・国語K100で冬眠【2020年1月から】
②公文:英語KI/上位6%【2021年8月6日から】
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